ゴールのない競争から降りよう。

 いわゆる“上昇志向”(過剰なもの)が性に合わないな、とつくづく思う。

 

 

コールセンター・DVDショップ(成人向け)・ラーメン屋…※一部です

 

僕の過去のバイト先は、ほとんどがスピード感・作業効率・売上を『もっと、もっと』と終わりなく追求していくような職場だった。

その価値観に心からは賛同できないまま、それでも必死に食らいついていたら、身体や心のどこかに必ず不調が現れて早期にその職場を離れることになった。

 

 

無駄な手間を増やしたいわけじゃない。

食後に、使用済みのお皿を流しまで持っていくとき、一枚ずつ何度も往復して持っていく人はいないだろう。

重ねられる食器は重ねてまとめて運んでしまう方が効率が良い。

もちろん僕もそのやり方を選択する。

賃金を戴く労働か否かに関わらず、作業において、速くしたい・効率良くやりたいというのは誰にとっても当たり前のことだろう。

 
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ただ、試行錯誤の結果、うず高く食器を積み重ね、ヨロヨロしながら家族全員分の食器を“一回で”流しまで持っていこう!とか、これだとヨロヨロしちゃうから安定して運べるように腕の筋力を鍛えよう!なんて発想が出てきたとしたら、頭が痛くなる。

なんでそこまですんの?

え、逆に暇なの?

速度の追求・効率の追求が過度になると息苦しさを感じてしまうのだ。

 

この過度な上昇志向を『もっともっと感』と名付けようと思う。

 

 

DVDショップで働いていた時期のこと。

僕は棚に差し込む見出しポップ(「あ行」「○○系作品」みたいなもの)を作る作業を任された。 

初めてやる作業なので試行錯誤しつつ、最も早く組み立てられるやり方はどれかな、とやっていた。

15分ほど経った頃に、僕にこの作業を与えた先輩がやって来て、うんざりした顔でため息と共に「…何やってんの?」と言ってきた。

先輩は「ちょっと貸して」と僕から台紙を奪い取り、これまでの僕には考え付かなかった隙の無い組み立て方で手早くポップを一つ完成させた。

「一つできたよね。30秒くらいだよね。10分あったら何個できる?」

「20個です…」

「15分ぐらい経ってるけどキミは何個作った?」

「…7個です」

「(再度、深いため息)…あのさ。1分1分大事にしてくんないと仕事回んないからさ。他にもやる事たくさんあるから。退勤時間までタラタラ時間潰してりゃいいもんじゃないから。」

「…はい。すみませんでした。急いでやります。お手本ありがとうございました」

その時点で自分の考え得る限りの効率の良いやり方でポップを組み立てていたが、先輩のやり方はそれを軽々と越えていった。

同時に、ああこの職場はそこまで『もっともっと感』に突き動かされなくちゃいけない所なんだな、と痛感した。

内心は、

じゃかぁしいわボケェ俺かてチンタラさぼってたわけちゃいますやん初めてやる作業やねん15分ではアンタの今やった“最速のやり方”には辿り着かれへんかったけどどうしたら速くできるかって上昇志向自体は持っとったんじゃそれをなんでこんな陰険に一ミリもやる気無いみたいに言われなあかんねんドタマかち割ったろかこんハゲが!(実際ハゲ)

と思っていたが、一分一秒を惜しむレベルの『もっともっと感』が必須となるこの職場で、自分がそこまでの切迫感は抱いてなかった事は事実なので素直に反省した。

ただ、スタッフ全員がそんなせかせかした余裕の無い状態で常に働いていないと回らない仕事ってどうなの?とも思った。

 

牛丼屋さんの牛丼が出てくる早さには本当に頭が下がるし、短時間で食事を済ませたいときにはありがたい存在だが、「早っ!そこまでしてくれなくてもいいのに」と思うときもある。

なんというかこういった業種は、とにかく早いですよーとにかく安いですよーと打ち出してサービスを始めたから世のお客さん達もあーそういうもんなんだとそれを基準として受け止めてしまい、それに対して引っ込みがつかなくなってしまってる感じがある。

 

人間の欲望には終わりがない。

一流ホテルのリッツ・カールトンでは『満足の先にあるのは大満足だけだ』として、宿泊客の『満足』を追求するよりも『感動』してもらうことを目指すんだそうだ。

100点のサービスを提供しても、それにお客さんが慣れてしまったら120点のサービスを提供しなければならない。そしてそれにもすぐ慣れて150点のサービスを…と、いたちごっこが続くことになる。

ベッドをより上質なものにしたり料理に一級食材を使うことは増減や良し悪しといった“評価”の軸にあるものだが、数年振りに利用したお客さんの顔と名前をホテルマンが覚えていてくれたときの感動は、そこにぽっと生まれ出た“喜び”である。

 

 

 

 

どうしても気になるのは『もっともっと感』に従属している人が発するピリピリ・トゲトゲした空気だ。


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「大切なお客様のためによりよいサービスを!」と言えば聞こえは良い。

 

しかし、僕が見てきた『もっともっと労働者』達は皆一様に余裕がなく、目に見えないなにか大きな黒雲にせっつかれて生きているような、“○○になるとイヤだからやってる”“仕方なくやってる”とでも言いたげな顔をして働いていらっしゃった(仕事はできるんだけどね)。
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漫才をやったり絵本を書いたり、最近はビジネス書がベストセラーになっているキングコング西野亮廣さんは、“1日が100時間ほしい”と言っている。

やりたいこと、浮かぶアイデアがありすぎて時間がいくらあっても足りないのだそうだ。

その状態の西野さんは、きっとワクワクして、イイ顔をしている。

決してよしもとに「馬車馬のように働け!」と言われているわけではなく、自分のやりたいことの構想で頭がいっぱいなのだ。
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僕が苛立たせてしまった先輩や同僚たちは、先が見えない急な螺旋階段を延々登っているイメージ。

西野さんは、だだっ広い大平原であっちに行ってみよう、変わった動物がいる!向こうには泉が湧いているぞ!ここに家を建ててみよう!と駆け回ってるイメージ。

 

どちらももっともっとと頑張っていても受ける印象が違うのは、ここの違いからなんじゃないだろうか。

 

 

 

『もっともっと感』の職場を辞めることを何度か繰り返すうちに気がついたことがある。

 

僕は、遊園地のゴーカートなんじゃないかと。


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カラフルな色彩で危険じゃない速度で走るゴーカートが、音速を目指し勝者を競うF1カーのサーキットに紛れ込んでしまったんじゃないかと。

自分でもわかっていなかったからF1カーですよーみたいな顔をしてしれっと混じっていたけど、周りの車が速い速い。

どんなにアクセルベタ踏みでも追い付かない。積んでるエンジンが違うのだから。

その内、オイお前どうしたんだ、ん?お前ひょっとして…ゴーカートなんじゃないのか!?という事が発覚する。

 

スピードを出せない自分を責めに責めた。

自分は価値のない人間だと思った。

強力なマシンでキレのいいドリフトをなぜキメられないんだろう。

しかしそれは的外れな自己嫌悪だったと感じる。

 

ゴーカートにはゴーカートの魅力がある。

遊戯として、ヘルメット不要・屋根のない開放感・安全な速度でドライバーを楽しませることができる。

F1カーはマシンの徹底した錬磨・ピットクルーの鮮やかな技術・何より高速の走りでチェッカーフラッグを揺らし、観客を魅了する。

 

これらはどちらも価値があり、優劣をつけられるものではないんじゃないだろうか。

 

 

『もっともっと』な仕事を批判するわけじゃない。

実際、ファーストフードや特にインターネットの通信速度から私達はありえない程の恩恵を受けている。

 

適材適所。

F 1カーならF 1カーの、ゴーカートならゴーカートの、普通自動車なら普通自動車のそれぞれの特性を無理することなく発揮して生きていければいいなと思うのだ。

そんな事言ったってお前、世の中の仕事はほとんどがF1サーキットだぞ?と思われるかもしれないが、だったら、ここにゴーカートありますよー!速くはないけど楽しいですよー!と発信してゴーカートの需要を広めるだけだ。

パッと見それしか見当たらないからといって、(自分にとっての)針のムシロに飛び込む義理はない。

 

かといって、「いや僕ゴーカートですから。ゆったりしか走りませんから。」と単一の価値観に閉じ籠って視野狭窄になるつもりもない。

マリオがスター取ったときみたいに、ゴーカートが突然F1カーに変形して猛スピードを発揮できるような機会もあるかもしれない。

そんなボーナスF1カー状態で、螺旋階段じゃなく大平原を見渡しながらゴキゲンに走り回れたなら、きっとそれこそが自分にとっての『天命』というんじゃないかと思う。