他者を変えることなどできないし、己を変えることすら勇気がいる。
年末年始の間に、セクハラ防止策に関する本を三冊読んだ。
そこでハッとした、三冊全てに共通して記されていた事実。
“加害者の多くは、自分の言動がセクハラにあたることを自覚していなかった”。
加害者になりうる、もしくは既に加害者である人間は自分が加害者になる可能性に気づかない。そこに対して気にかけたり、調べたりしない。傲慢を人に押し付ける(程度の差はあれ)ことが日常になっている。
※かくいう自分も、普段よく下ネタを言うのですが「場面を選んでる」「下ネタが平気な人にだけ言ってる」などとうそぶき、自分は問題無いつもりでいました。笑顔で受け流してくれているとしても、内心などわからないというのに。これ以降、配慮するように努めています。
この図式は、セクハラに限らず人間関係の問題において幅広く蔓延してるのではないだろうか。
こういう人を変えることはできない。
気づいていないんだもの。
聴く耳を備えていない。
自分のまわりの、いわゆる“困ったひと” たちに改善してもらおうと働きかけることは、穴の空いた鍋に水を注ぎ続けているようなものだ。
結局、本人が気づくしかない。
本人が気づいたとしても、それを受け入れることはとてもつらいことだ。
気づいた改善点は、これまで自分にとって“必要”で“目的”だった行動なのだから。
これらを総て受け入れ、毎度的確に修正していける人間がいたらもはやその人は聖者なんじゃないかと思ってしまう。
それでも、少しずつでも間違えながらでも自分を変えるために行動していく力は、誰もが持っているもの。
できるできないじゃない。
やるかやらないかだ。
勇気を持って、自分を変えようと踏み出すかどうかだ。
自分を省みる視点を持ち、周囲への配慮を忘れずに、変わるための小さい一歩を踏み出せる人が増えることこそが、世界が変わる有効な流れなんじゃないだろうか。