「優しいね」「( ´ー`)(ヤメテェエエチガウノォオオオオ)」
苦しかった 『優しい』『いい人』の評価がいつしか平気になっていた。
長らく、「優しい」と言われたり『いい人』として紹介されることが辛かった。
人から、特に魅力的な女性から「優しいね」と言われると、
(アンタは雄としての価値ないから。男として見れない、ただの優しい“イイヒト”。だから絶対私に手を出したりしてこないでよね。マジ無理だから。)
という追加の意味を自分の中で勝手に受け取ってしまっていた。
つまり、その女性を口説くつもりのあるなしに関係なく、『優しい人』とされた時点で、恋愛の方向では脈無し・男としてナシという判断をくだされた感じがしてしまうのだ。
男としてナシでも人間的に好評価ならいいじゃないか、って話だけど、これが引き裂かれるような辛さを俺に与えた。
その場から逃げ出し、自室に籠って、うわああぁぁあああちくしょおおおおおぉおおおおと絶叫しながらゴロゴロ転がりたくなる衝動に駆られた。
ホントかよなにもそこまで、と思うかもしれないけど、男として見られること・モテることは俺の中でそのぐらい比重を置かれることだったのだ。
ただ、“優しい人=モテない”はそんな単純な仕組みではなかった。
優しい人、いい人であることはモテないことの直接的な原因ではない。
モテ要素を備え、 女性にアプローチしていくことと、本人の特長が優しさであることは全く別のことだ。
モテようとしてあれこれ行動した結果、俺も、恋愛界で定期的に聞くこの説を知識だけじゃなく腑に落ちて自覚することができた。
モテない理由(罪)を優しさに全部着せて逃げちゃいけない。
その人の際立つ個性が優しさだろうがなんであろうが、 必要なのは相手の心を恋愛的に揺さぶることなのだ。
逆に言えば、的確に相手の心を揺さぶることができるならば、普段優しい優しいと言われている人だろうが恋愛面で豊かに生きることはできる。
で、どういった部分が心に刺さるかは相手の女性によって違うからなんとも言えないんだけど、大まかな傾向としては、
●男らしい
●引っ張ってくれる
●自信・余裕のある態度
●ちょっとだけ強引
●色気がある
など、まあ~柔らかさや穏やかさとは真逆の要素が好かれやすい。
だから“優しい人はモテない”って思われやすいのかなと。
正確には“優しい(しか取り柄がない)人はモテにくい”だと思うんだけど。
悲しいかな、モテを志して歩み始めるそのとき、
「俺はブサイクだし、背も低いし、頭も悪いし、運動音痴だし、etc…優しいぐらいしか取り柄がないよな。よし、優しさを徹底的に磨こう!」
と優しさでの一点突破を決めてしまうのはたいへん効率が悪いのだ。
そんなことをグジャグジャ考えて試行錯誤した結果の今の俺は、
●“女性とのデートやセックスは、手の届かない高みにある果実ではない”という、認識の改め
●この人好きだな、となったときにきちんと攻め込んでシュートを打ちに行ける度胸と行動力
これらを獲得したことから、『イイヒトだからモテない!』と悩むことは無くなった。
※悩まなくなっただけで、決してモテモテになったわけではない。
結局俺が求めていたのは、「彼女以外にセフレも沢山!毎日取っ替え引っ替え!」みたいなわかりやすいモテ像の結果ではなく、モテたいという欲に振り回されてどうすればいいかわからずもがいている状態からの脱出だったのかもしれない。
話が逸れました。
加えて言うと、いい人どまりでモテない人の優しさって、 歪なものも含まれてる気がする。
●お節介・ありがた迷惑のような優しさ
●こうしたら好かれるかなって下心のあるもの
●ヒェ~~~すいませんねえこんなモテない男が~みたいな弱々しい気持ちの滲み出たもの
これらの優しさの共通点は「結局自分のことを考えている」ことだと思う。それは本質的には優しさじゃない。
相手に好かれる前にこういう余計なこと(減点対象)をし過ぎているのだ。
人混みの中で目の前の人が苦しそうにしゃがみこんだら「大丈夫ですか?」と声をかけると思う。
今は、 そういった自然に湧き出てくる優しさだけ行動に移すようにしている。
どこか歪みのある優しさを可能な限り排除して、自然に生きていてそのうえで「優しい」「穏やか」と言われるならば、その評価は素直に嬉しいこととして受け入れよう。
そんな感覚で日々を送れるようになった。
しかし痛々しいですね。
自分で勝手に悪い意味に受け取って勝手に傷付いてて。知らんがなって話ですよね。
でも、割と非モテ男性あるあるだと思うんですよ。
いい人どまりで苦しんでいる男性たちのちょっとでも救いになればと思います。
ヤケになって「優しさなんて捨ててやるー!」と反対方向に振り切っちゃって、ぎこちなくワルぶってみたり、あなたの本来の純粋な優しさまで押し殺してしまったり、周りの大切な人を傷つけてしまったりすることが、どうか、ないように。
祈っています。
D-Soul公演感想
6/30,7/1
創作表現集団D-Soul不定期公演『普通の愛』『4 Angels』感想。
※4Angelsについては追記予定
『普通の愛』。
真次。
ああ、最低な男だなと。女性が「サイテー♡」とちょっと嬉しそうに言っちゃう感じのモテ男ではなく、本当に駄目な男でした。
自分の特性を解っていない。
婚約者の気持ちを解ろうとしない。
頼ってくれる忍さんとは直接会って相談を受けるし、気楽にいられる渚の部屋には入り浸る。
「俺は自然に生きてるだけだ」と言っても、自分の言動が周囲に及ぼす影響を考えたうえで配慮するのと、そこに想像を巡らせられないで思うがままに動き回るのとではわけが違う。
美雪が婚約者ではなく、単に今付き合っている恋人であったのなら彼女もあそこまで疑心暗鬼にはならなかったかもしれない。
が、たぶん真次は、枷があると嫌なのでしょう。婚約者どころか特定の恋人すら持たない方が生きやすいのかもしれない。
それを自分で解っておらず、周囲を振り回してしまうのが厄介なところ。
美雪。
(モチをつきながら)「やっちまったなぁ!!!」としか言えない。
婚約する迄に、彼にそういった部分があることを見極められなかったことが痛恨の極み。
もしくは見極めたうえで『婚約を期に変わってくれる』『真次さんを変えてみせる』と思っていたのなら、甘い。それは彼女の力量不足ということでもなくて。
忍。
彼女もやらしい部分あったと思います。
昔馴染みで、真次が断れないことも充分わかっているだろうに「ここから先は地獄よ」みたいなことを言いながらも助けて欲しいみたいな雰囲気を出しまくる。
だとしたら、「ここから先は地獄よ」は後の免罪符として機能する。「あのときちゃんと忠告したじゃない」と。
それは彼女の逃げ道です。
渚。
一番、正直で好感の持てるキャラクターでした。
どこまで現況を解っていたっけ?真次が忍さんの相談受けてることは知ってて、婚約者のことも知ってて?
彼の優柔不断な面も理解していて、それだったら婚約者ができた時点で、彼が気軽に甘えてくることも拒まないといけないと思うけど、渚も彼のことを想ってるから受け入れてしまった。
諦めるか奪うか、どちらかに振り切れずに中途半端にいてしまったことが彼女の失敗かなあと。
殺害後の取り調べシーンは蛇足だと思いました。
結局明らかにしない犯人を探すためだけに場面が使われていて、三人の台詞も取り調べに対する回答だからか、ほぼ要領を得ない。
“誰が犯人か解らないけど、真次の行動の結果、彼は刺されてしまった。”
というだけなら、例えば、例えばですが、刺された彼が倒れた後に三人の声を混じらせて「「「貴方が悪いんだからね」」」みたいな台詞を響かせる、とか。その後、彼が亡くなった後のそれぞれの気持ちの独白、とか。
とにかく、いい感じに刑事もののような雰囲気で、また司山さんが格好良く演技してらっしゃるもんだから悪目立ちしちゃって、余計に取り調べシーンにはストレスを感じました。
(中には女性達の、彼の死を受けての気持ちの吐露も混じってはいたんでしょうが、外周をぐるぐる回ってるだけの様な話を長々と見せられたらダレます。観客は重要なピースを見つけられない、拾えない。)
あと、BGMが常に流れているのも気になりました。
各場面ごとに合う曲をチョイスしててこだわりがあったようですが、台詞とBGMがお互いの邪魔をし合っているように受け取ってしまいました(音量的に)。
聴覚への情報量が多過ぎて、処理が追い付きません。そのうえ辛気臭い話だしで、観終わった後はクタクタでした。
『普通の愛~What is love?~』と銘打ったこの作品を観て、愛についてよく考えさせられました。
自分なりの考えなんですが…
あちこちで女性と二人で会いまくるってことそれ自体が悪いことではないと思うんですよ。
真次が、自分にそういった傾向があることを省みずに野放しにして、その傾向を悪しとする環境に身を置いてしまった。
それが失敗というか、不適応だったなと。
別にあちこちの女性を口説いてるわけじゃなく、たまたま、“助けたい人”も“気楽に過ごせる相手”も両方女性だっただけ。というのなら、婚約者を慮って、美雪が傷付かない形での関わり方に留めなければいけないし、それが煩わしいのなら婚約なんてしなければいいんです。
クズ男クズ男言われてますが、クズにはクズなりの身の振り方がある。
恐らく美雪が婚約者に求めることは“自分だけを見てくれて、互いに支え合える人”。
真次が婚約者に求めることは“自分の行動にうるさく口出しせず、側にいて癒してくれる人”。か、…もしくはその辺ふわっとしていて定まっていなかったのでしょう。
数々の女性を渡り歩いてるサイテーモテ男達は、ここの齟齬を発生させない。それぞれの価値観を察知し、擦り合わせ、巧く立ち回っている。(それで何人もと関係を持つことが必ずしも幸せなのかといったらわかりませんが。)
とはいえ、我々“普通”の人間は大抵がそんなに冷静に分析して対人関係を築いてなどいけない。
“愛”が絡むと、なおのこと。
だからこそ、一人一人が己の愛の形をよく知り、大切にし、丁寧に表現すること。
白馬の王子様は存在しないし、ある日突然空から美少女は落ちてこない。
パズルのピースが綺麗にはまることはないかもしれないけど、せめて近い形を見つけて、ぶつかり合って角が取れて丸くなったりして、どうにかこうにか収まる。
そこを目指して努力を続けていくことが“愛すること”なのかな、と思います。
「ブンナ」と命
結論
- 今日という日は二度とない
- じいちゃんばあちゃんすげー
- 舞台よかったら観に来てね
この度客演させていただく舞台、演劇くらぶ葛の葉公演「ブンナよ木からおりてこい」。
根元的な“生命”について考えさせられる物語で、色々なことを思います。
さんざん語っておいて最後に告知載せると「結局宣伝かい!!!」って感じちゃいそうなんで、先に載せておきますね。
演劇くらぶ「葛の葉」公演
『ブンナよ木からおりてこい』
※原作 水上勉
5/26(土) 14:00~,19:00~
5/27(日) 14:00~
※各回とも30分前開場
※公演時間は2時間を予定しております(途中10分休憩あり)。
会場:豊栄地区公民館2階講堂(新潟市北区東栄町1丁目1−15)
チケット:一般 1000円,小学生以下 700円 ※当日500円増し
出演:井上晶子 倉島憲(東区市民劇団 座・未来) 渡辺彩 若月育子 平田セイイチ(東区市民劇団 座・未来) 五十嵐隆子 坂井雄一 白神道子 服部正史
声の出演:若月向日葵 若月大河 他
若者風にストーリー解説:
カエル達が潟のほとりで暮らしてるんですけどー、ブンナってやつが一匹いてマジハンパねーんですよ。めっちゃ跳ぶしめっちゃ虫とか捕まえるんですよ。んで、仲間のカエルにそそのかされて椎の木に登るんですね。スゲエ高くて、普通登れないんですよ。でもブンナやべーから。能力高いから。登れちゃうんですよこれが。
ただ登った先がデンジャラスでぇ!鳶のエサの中継所なんですよ。獲物捕まえて、半殺しにして、いざ食うときまでに置いとくとこなんですね。捕まった生き物達は、鳶に食われるのを待つだけ。っていう。やベースよ三途の川ですよマジで。
で、手負いの生き物達は、これまでの人生を振り返ったり、命乞いしたり、ブンナを鳶に捧げて自分が助かろうと考えたり色々するんですよ。
そんな、死を目前にした醜い生き物の本性を見て、ブンナは多くのことを学びとり、成長していきます。
(普通のしゃべり方に戻っちゃった)
個人的に印象的なのが、人生を振り返る動物達が語るなかの「生まれたときに母親にこう言われた」「いつも母親がこう教えてくれた」といった話。
いつ、襲われて補食されるかわからない自然界。
親は子供を守りつつ、自分がいつ居なくなっても良いように、子供に、具体的な生活の仕方や生きるうえで大事な教えを施しているのでしょう。
そんな動物たちでさえ、いざ死に際が迫ったら命乞いをし、あの時ああすればよかった、もっとこうしておけばよかったと人生の後悔を感じるのです。
これが人間ならなおのことでしょう。
大事なものを全力で守ればよかった、好きな人に好きと言えばよかった、行きたいところに行けばよかった…
何気なく過ごしている一日一日が、最期の瞬間と同じ、人生の本番であること。
私達はいつだって、手遅れになってから大切なことに気が付きます。
二年前、大好きだった祖母が亡くなりました。
深夜の病棟。永眠の瞬間を看取ることができた遺族は、その日泊まり込んでいた僕だけでした。
数日前から意識も無くなっており、遺言なども遺すことができない状態でした。
ですが、思い返せば祖母は、いや、さらに前に亡くなり死に目に会えなかった祖父も同じく、健康でいるうちの日常の中で多くの愛情を僕たちに注いでくれていたと感じます。
「ばあちゃんは、お前達(兄と僕)がかわいくてかわいくてしょうがないんさ」とか
「なんーにもしねでいいて!(なにもしなくていいよ)お前達が元気でいてくれることが一番の嬉しいことらよ」とか
小さい頃、祖父と布団を並べて寝ていたのですが、ふと横を見て祖父と目が合うと、菩薩のような微笑みを浮かべて頭を撫でてくれたり。
死期が近づいてのこれといった遺言が無くても、ふたりの日々の言動が僕たちに生きる力を与えてくれていました。
“毎日が特別な日。自分に正直に後悔しないように生きていこう。”なんて言うとありふれた自己啓発本のようでちょっと嫌ですが、本当に腹落ちして理解して実践していくことで、納得いく人生を送れるんじゃないかな、そしてじいちゃんばあちゃんはそれをやってのけていたな、と実感したのでした。
そんな感じです。
公演が終わっても、僕は、折に触れてこの物語を思い出し、命を噛み締めることでしょう。
YouTubeで「ブンナよ、木からおりてこい」で検索してもらうと舞台全編公開している劇団があったり、原作小説も大抵の図書館で借りれたりするので、関心を持たれた方は見てみてはいかがでしょうか。
もちろん、葛の葉の公演を観に来ていただくのが一番嬉しいことですが。
よろしければご一報ください。
echigokuraken@gmail.com
越後のくらけん🐸 (@id_kura_ken)さんをチェックしよう https://twitter.com/id_kura_ken?s=09
ゴールのない競争から降りよう。
いわゆる“上昇志向”(過剰なもの)が性に合わないな、とつくづく思う。
コールセンター・DVDショップ(成人向け)・ラーメン屋…※一部です
僕の過去のバイト先は、ほとんどがスピード感・作業効率・売上を『もっと、もっと』と終わりなく追求していくような職場だった。
その価値観に心からは賛同できないまま、それでも必死に食らいついていたら、身体や心のどこかに必ず不調が現れて早期にその職場を離れることになった。
無駄な手間を増やしたいわけじゃない。
食後に、使用済みのお皿を流しまで持っていくとき、一枚ずつ何度も往復して持っていく人はいないだろう。
重ねられる食器は重ねてまとめて運んでしまう方が効率が良い。
もちろん僕もそのやり方を選択する。
賃金を戴く労働か否かに関わらず、作業において、速くしたい・効率良くやりたいというのは誰にとっても当たり前のことだろう。
ただ、試行錯誤の結果、うず高く食器を積み重ね、ヨロヨロしながら家族全員分の食器を“一回で”流しまで持っていこう!とか、これだとヨロヨロしちゃうから安定して運べるように腕の筋力を鍛えよう!なんて発想が出てきたとしたら、頭が痛くなる。
なんでそこまですんの?
え、逆に暇なの?
速度の追求・効率の追求が過度になると息苦しさを感じてしまうのだ。
この過度な上昇志向を『もっともっと感』と名付けようと思う。
DVDショップで働いていた時期のこと。
僕は棚に差し込む見出しポップ(「あ行」「○○系作品」みたいなもの)を作る作業を任された。
初めてやる作業なので試行錯誤しつつ、最も早く組み立てられるやり方はどれかな、とやっていた。
15分ほど経った頃に、僕にこの作業を与えた先輩がやって来て、うんざりした顔でため息と共に「…何やってんの?」と言ってきた。
先輩は「ちょっと貸して」と僕から台紙を奪い取り、これまでの僕には考え付かなかった隙の無い組み立て方で手早くポップを一つ完成させた。
「一つできたよね。30秒くらいだよね。10分あったら何個できる?」
「20個です…」
「15分ぐらい経ってるけどキミは何個作った?」
「…7個です」
「(再度、深いため息)…あのさ。1分1分大事にしてくんないと仕事回んないからさ。他にもやる事たくさんあるから。退勤時間までタラタラ時間潰してりゃいいもんじゃないから。」
「…はい。すみませんでした。急いでやります。お手本ありがとうございました」
その時点で自分の考え得る限りの効率の良いやり方でポップを組み立てていたが、先輩のやり方はそれを軽々と越えていった。
同時に、ああこの職場はそこまで『もっともっと感』に突き動かされなくちゃいけない所なんだな、と痛感した。
内心は、
じゃかぁしいわボケェ俺かてチンタラさぼってたわけちゃいますやん初めてやる作業やねん15分ではアンタの今やった“最速のやり方”には辿り着かれへんかったけどどうしたら速くできるかって上昇志向自体は持っとったんじゃそれをなんでこんな陰険に一ミリもやる気無いみたいに言われなあかんねんドタマかち割ったろかこんハゲが!(実際ハゲ)
と思っていたが、一分一秒を惜しむレベルの『もっともっと感』が必須となるこの職場で、自分がそこまでの切迫感は抱いてなかった事は事実なので素直に反省した。
ただ、スタッフ全員がそんなせかせかした余裕の無い状態で常に働いていないと回らない仕事ってどうなの?とも思った。
牛丼屋さんの牛丼が出てくる早さには本当に頭が下がるし、短時間で食事を済ませたいときにはありがたい存在だが、「早っ!そこまでしてくれなくてもいいのに」と思うときもある。
なんというかこういった業種は、とにかく早いですよーとにかく安いですよーと打ち出してサービスを始めたから世のお客さん達もあーそういうもんなんだとそれを基準として受け止めてしまい、それに対して引っ込みがつかなくなってしまってる感じがある。
人間の欲望には終わりがない。
一流ホテルのリッツ・カールトンでは『満足の先にあるのは大満足だけだ』として、宿泊客の『満足』を追求するよりも『感動』してもらうことを目指すんだそうだ。
100点のサービスを提供しても、それにお客さんが慣れてしまったら120点のサービスを提供しなければならない。そしてそれにもすぐ慣れて150点のサービスを…と、いたちごっこが続くことになる。
ベッドをより上質なものにしたり料理に一級食材を使うことは増減や良し悪しといった“評価”の軸にあるものだが、数年振りに利用したお客さんの顔と名前をホテルマンが覚えていてくれたときの感動は、そこにぽっと生まれ出た“喜び”である。
どうしても気になるのは『もっともっと感』に従属している人が発するピリピリ・トゲトゲした空気だ。
「大切なお客様のためによりよいサービスを!」と言えば聞こえは良い。
しかし、僕が見てきた『もっともっと労働者』達は皆一様に余裕がなく、目に見えないなにか大きな黒雲にせっつかれて生きているような、“○○になるとイヤだからやってる”“仕方なくやってる”とでも言いたげな顔をして働いていらっしゃった(仕事はできるんだけどね)。
漫才をやったり絵本を書いたり、最近はビジネス書がベストセラーになっているキングコング西野亮廣さんは、“1日が100時間ほしい”と言っている。
やりたいこと、浮かぶアイデアがありすぎて時間がいくらあっても足りないのだそうだ。
その状態の西野さんは、きっとワクワクして、イイ顔をしている。
決してよしもとに「馬車馬のように働け!」と言われているわけではなく、自分のやりたいことの構想で頭がいっぱいなのだ。
僕が苛立たせてしまった先輩や同僚たちは、先が見えない急な螺旋階段を延々登っているイメージ。
西野さんは、だだっ広い大平原であっちに行ってみよう、変わった動物がいる!向こうには泉が湧いているぞ!ここに家を建ててみよう!と駆け回ってるイメージ。
どちらももっともっとと頑張っていても受ける印象が違うのは、ここの違いからなんじゃないだろうか。
『もっともっと感』の職場を辞めることを何度か繰り返すうちに気がついたことがある。
僕は、遊園地のゴーカートなんじゃないかと。
カラフルな色彩で危険じゃない速度で走るゴーカートが、音速を目指し勝者を競うF1カーのサーキットに紛れ込んでしまったんじゃないかと。
自分でもわかっていなかったからF1カーですよーみたいな顔をしてしれっと混じっていたけど、周りの車が速い速い。
どんなにアクセルベタ踏みでも追い付かない。積んでるエンジンが違うのだから。
その内、オイお前どうしたんだ、ん?お前ひょっとして…ゴーカートなんじゃないのか!?という事が発覚する。
スピードを出せない自分を責めに責めた。
自分は価値のない人間だと思った。
強力なマシンでキレのいいドリフトをなぜキメられないんだろう。
しかしそれは的外れな自己嫌悪だったと感じる。
ゴーカートにはゴーカートの魅力がある。
遊戯として、ヘルメット不要・屋根のない開放感・安全な速度でドライバーを楽しませることができる。
F1カーはマシンの徹底した錬磨・ピットクルーの鮮やかな技術・何より高速の走りでチェッカーフラッグを揺らし、観客を魅了する。
これらはどちらも価値があり、優劣をつけられるものではないんじゃないだろうか。
『もっともっと』な仕事を批判するわけじゃない。
実際、ファーストフードや特にインターネットの通信速度から私達はありえない程の恩恵を受けている。
適材適所。
F 1カーならF 1カーの、ゴーカートならゴーカートの、普通自動車なら普通自動車のそれぞれの特性を無理することなく発揮して生きていければいいなと思うのだ。
そんな事言ったってお前、世の中の仕事はほとんどがF1サーキットだぞ?と思われるかもしれないが、だったら、ここにゴーカートありますよー!速くはないけど楽しいですよー!と発信してゴーカートの需要を広めるだけだ。
パッと見それしか見当たらないからといって、(自分にとっての)針のムシロに飛び込む義理はない。
かといって、「いや僕ゴーカートですから。ゆったりしか走りませんから。」と単一の価値観に閉じ籠って視野狭窄になるつもりもない。
マリオがスター取ったときみたいに、ゴーカートが突然F1カーに変形して猛スピードを発揮できるような機会もあるかもしれない。
そんなボーナスF1カー状態で、螺旋階段じゃなく大平原を見渡しながらゴキゲンに走り回れたなら、きっとそれこそが自分にとっての『天命』というんじゃないかと思う。
他者を変えることなどできないし、己を変えることすら勇気がいる。
年末年始の間に、セクハラ防止策に関する本を三冊読んだ。
そこでハッとした、三冊全てに共通して記されていた事実。
“加害者の多くは、自分の言動がセクハラにあたることを自覚していなかった”。
加害者になりうる、もしくは既に加害者である人間は自分が加害者になる可能性に気づかない。そこに対して気にかけたり、調べたりしない。傲慢を人に押し付ける(程度の差はあれ)ことが日常になっている。
※かくいう自分も、普段よく下ネタを言うのですが「場面を選んでる」「下ネタが平気な人にだけ言ってる」などとうそぶき、自分は問題無いつもりでいました。笑顔で受け流してくれているとしても、内心などわからないというのに。これ以降、配慮するように努めています。
この図式は、セクハラに限らず人間関係の問題において幅広く蔓延してるのではないだろうか。
こういう人を変えることはできない。
気づいていないんだもの。
聴く耳を備えていない。
自分のまわりの、いわゆる“困ったひと” たちに改善してもらおうと働きかけることは、穴の空いた鍋に水を注ぎ続けているようなものだ。
結局、本人が気づくしかない。
本人が気づいたとしても、それを受け入れることはとてもつらいことだ。
気づいた改善点は、これまで自分にとって“必要”で“目的”だった行動なのだから。
これらを総て受け入れ、毎度的確に修正していける人間がいたらもはやその人は聖者なんじゃないかと思ってしまう。
それでも、少しずつでも間違えながらでも自分を変えるために行動していく力は、誰もが持っているもの。
できるできないじゃない。
やるかやらないかだ。
勇気を持って、自分を変えようと踏み出すかどうかだ。
自分を省みる視点を持ち、周囲への配慮を忘れずに、変わるための小さい一歩を踏み出せる人が増えることこそが、世界が変わる有効な流れなんじゃないだろうか。